人生における問題、すべて、自分に原因がある。

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GIVE AND GIVE ミナジョーです。

ここでは、あなたが夢を叶える為の手助けになる記事を紹介していきます。 
 
あすか会議2018のセッション「すべては導かれている - 逆境を越え、人生を拓く5つの覚悟」の内容を書き起こした記事を紹介します。
しかし、この「解釈力」を正しく発揮するためには、もう一つ、心に定めるべき大切な覚悟があります。それは、「人生における問題、すべて、自分に原因がある」という覚悟、「第三の覚悟」です。この覚悟を定めることができるかどうかが、大きな分かれ道です。

では、なぜ、この覚悟が大切か。実は、「解釈力」と言っても、目の前に与えられた逆境の「意味」は、いかようにも解釈できるのです。

例えば、仕事において、あるトラブルが生じたとします。そのとき、「これは、当社の組織に問題があるということを教えてくれている」と解釈する。それも解釈です。

また、「この出来事は、あの上司に問題があるということを教えてくれている」と解釈する。これも解釈です。

しかし、こうした「自分以外に責任を問う」「自分以外に責任を押し付ける」という「他責」の解釈をしている限り、人間として成長できないのです。そして、道も拓けない。運気を引き寄せることもないのです。

逆に、そうした「他責」の姿勢ではなく、「起こること、すべて自分に原因がある」という「自責」の解釈をすると、人間的に成長できるだけでなく、なぜか、運気も引き寄せるのです。 

例えば、元サッカー日本代表監督の岡田武史さん。この方が横浜F・マリノスの監督だったとき、審判の明らかな誤審で試合を失ったことがあります。

テレビのリプレイを見ても、明らかに審判の誤りだった。しかし、判定は覆らない。その試合の後、インタビュアーに「審判の誤審で負けましたね」と聞かれた。インタビュアーは、岡田監督から愚痴の一つも聞こうとした場面でした。 

ところが、そこで岡田監督は、感情的になることもなく、堂々と、こう言いました。
「ええ、審判も人間ですから誤審をすることはあるでしょう。でも、我々は、それも含めて勝たなければならないんです」。 

岡田監督は、堂々とそう言った。日本には、昔から、「運も実力のうち」という言葉がありますが、「それも含めて勝たなければならない」と、敗北を自分の責任として受け止める姿勢、それが、岡田武史というリーダーに、いつも強運をもたらしているのでしょう。

そもそも、我々が問題に直面し、「自分の責任ではない。誰かの責任だ」と思うときは、多くの場合、我々の心の中で「小さなエゴ」が動いています。

そして、その「小さなエゴ」が動いているときは、必ず、「解釈」を誤ります。例えば、感情的になっているとき、誰かを非難する思いが強いとき、自己弁護の思いが強いとき、こういうときは、必ず「解釈」が歪みます。 

「解釈」が濁ります。そして、そのとき、「大いなる何か」が、我々に手を差し伸べることはないのです。

そうであるならば、皆さん、ご自身の心の中にある「小さなエゴ」の動きは見えているでしょうか。「小さなエゴ」は、誰の心の
中にもあります。私の心の中にもあります。そして、この「小さなエゴ」は、消そうとしても、消えるものではありません。

捨てようとしても、捨てられるものではありません。それは、生涯つき合っていくべきものです。

よく、「我欲を捨てる」という言葉や、「私心を去る」といった言葉を簡単に言われる方がいますが、実は、人間の心は、それほど簡単ではないのです。

心の中の「小さなエゴ」は、「捨てた」と思っても、それは、単なる錯覚か、思い込みであり、実は、心の奥深くに隠れているだけなのです。それゆえ、何かの拍子に、容易に、また表に現れてくるのです。 

だから、自分の心の中の「小さなエゴ」とは、生涯つき合う覚悟を定めた方が良い。むしろ、捨てたつもりになっていることが、危ない。「自分は我欲を捨てた」と思っても、ただ、そう思い込んでいるだけであり、心の中で抑圧した「小さなエゴ」は、別のところで必ず鎌首をもたげるのです。それが人間の心の姿です。

だからこそ、宗教的に深い境涯にまで行かれた人物、例えば、親鸞のような人物は、その境涯に至ってなお、あの言葉を残すわけです。「心は蛇蝎のごとくなり」。自分の心は、ヘビやサソリのごとくだ、と。

たしかに、誰であろうとも、自分の心を深く見つめると、そこには、「小さなエゴ」の蠢きがある。衝動がある。思わず怒りに駆られる瞬間も、人を妬む瞬間も、恨む瞬間もある。それが、人間の自然な姿ではないでしょうか。

そして、こうした指摘は、決して親鸞だけではない。昔から、真の宗教家は、この「小さなエゴ」の問題を鋭く指摘しています。「小さなエゴ」を捨てたつもりになって幻想に入るべきではない。それ自身が、「小さなエゴ」の擬態であると。

続きます。

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