人の行く裏に道あり花の山

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今日は織田信長に学ぶ『人の行く裏に道あり花の山』の生き方という記事を紹介します。

” 人の行く裏に道あり花の山 ”


この言葉はもともと、投資の世界の格言です。
多くの人が行く場所よりも、だれも行かないようなところにこそ、満開の桜(チャンスのたとえ)が見られるという意味です。

「人に行く裏に道あり花の山」の意味するところは、決して裏道を探し当てろといった単純なものではありません。

舗装された道ではないところ(=誰も通らない、前例のないところ)を歩く勇気が必要だということです。
この「前例のないところ」というのは厄介です。

私たちは過去に成功したパターンや手法を真似て、それを手を替え品を替えチャレンジしていくことは比較的簡単にできますが、まったく未知のものに対してはなかなか足を踏み出せません。

つまるところ、ゴールまでの道のりがまったく分からないような状態では人は歩き出せないのです。

なので、ほかのだれかがまずチャレンジするのを待ちます。
そうして「失敗」なり「成功」なりを見届けて分析してから、今度は自分が挑戦してみようとするのが人の常ではないでしょうか。

けれど、この格言はそれではいけないということを教えてくれています。
前例のない道をだれかが挑戦して小手調べしてくれるのを傍観するのではなく、先陣を切って最初の一歩を踏み出す人になりなさい、という意味なのです。

そして、その道のりが、いずれは「花の山」へとつながるよ・・・と。
たしかに、だれも通ったことのない道を歩くのは怖いものです。

単に未知だから怖いのではなく、実際にも「失敗」のリスクは舗装された道を行くよりもはるかに高いでしょう。

しかし、リスクとリターンは常に比例関係です。
楽してたくさんのリターンを得るなんて話は、ただの詐欺です。
(書いていてふと思い出しましたが「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という諺もありますが、まったく同じ意味ですね。大きな成果を上げるためには、危険な冒険をしなければならないという意味です。)

「人の行く裏に道あり花の山」は、誰も通ったことのない前例のない道にこそ満開のチャンスの芽がある、だから怖がらずに思い切って一歩を踏み出そう、ということでした。 

では、実際にこの格言を体現するような生き方をして、偉大な事業を成し遂げた人にはだれがいるでしょうか?

このように考えてみたとき、私がまずぱっと思い浮かんだのは戦国時代を生きた「織田信長」でした。

ここからは織田信長の成し遂げた数々の業績を振り返りながら、「前例のない道を歩く」とはどういうことかを考えていきます。

●桶狭間の戦いで常識では考えられない「戦略」を取った信長


信長といえば、有名なのが「桶狭間の戦い」ですよね。
桶狭間の戦いは、若き猛将の信長と駿河の大名であった今川義元の間で起こった戦です。
この戦が起こったときは、信長はまだそれほど勢力が大きくありませんでした。

今川氏の方が圧倒的で、軍の数は信長の10倍であったとも言われています。
自分たちより10倍もの数の的と戦うには、どうすればいいでしょうか?

戦地では兵力差がものをいう時代なのですから、当然真っ向から挑みに行ったのでは勝算はありません。

信長の家臣たちは口々に「籠城して戦おう」と説得しました。
(城からだれも出ずに戦って、最後は自ら命を立ちましょうという意味です。つまり「勝つ」可能性や方策は考えられず、戦国の時代に恥じない潔い死に重きを置いていたとも言えます。)

しかし、信長はそういった家臣の無責任な発言には一切耳を貸しません。
なぜ無責任なのかというと、自分たち(=戦う将兵たち)は戦場で潔く散れて本望かもしれませんが、国には子供や女性もたくさん残っているからです。

(残された子供などは、戦国の世の場合、奴隷にされるか殺されるかが相場でした。)
なので「自分だけ思い切りよく戦って死ぬ」などということは受け入れられませんでした。

信長は家臣団には頼らず、熟考します。
そうして、奇跡的にも義元のいる今川本陣の場所に目途をつけます。

少ない信長の軍勢では、今川の全軍と戦っても勝ち目はまずありません。
けれど、頭首のいる本陣を見つけ出し、そこに急襲をかければ少ない人数であっても戦うことはできるのです。

嵐が吹き荒れる夜中、ひっそりと潜んでいた信長の軍が今川本陣に襲い掛かり、そして義元を討ち取りました。

兵力差10倍近くもあった中での、戦国最大の大逆転劇でした。
もし、信長が家臣団の言う通り、「数で負けているときは籠城して戦う」というそれまでの常識とされていた戦略を取っていたら勝ちははかったかもしれません。

10分の1しかない兵力で、あえて非常識とも言える戦陣へ飛び出したからこそ逆転を成し得たのです。

●経済政策でも従来の常識を次々とぶち壊した信長


また、信長は桶狭間のイメージが相当に強いためか、軍事の面ばかりが強調されがちですが、経済政策の面でも多大なる業績
を上げています。

武田知弘さんの『織田信長のマネー革命』に詳しく紹介されています。
いまの日本の経済の基盤をつくったのは、実は信長だというのです。

(それほど、だれもやらなかった前例のない偉大なことに数々チャレンジしていたのです。)

いくつかご紹介してみます。
まず、信長がやったことで有名なのは比叡山延暦寺や石山本願寺などの焼き討ちです。
現代の私たちがこれだけを聞くと、仏教を迫害するとはなんとけしからんやつなんだ!とか、信長は神をも恐れない独裁的な人間だったのだ!といった解釈をしてしまいますが、これには理由がありました。

実は戦国時代の「寺社」というのは、いまのものとはまったく違う形態で、けた外れの経済力を持っていました。

当時の一般の人々のレジャーというのは、ほとんどなく、寺社への参詣や寄進が貴重な行事でしたので、人々は溜め込んだ少ない貯金を参詣ですべて寄進します。

それも寺社の大きな収入源でしたが、寺社は全国各地に荘園として莫大な土地も持っていましたので財力は増える一方でした。

さらには、高利貸し(いまでは考えられないくらいの高利息)として悪徳な商売も行っていました。

また、当時の寺社では自分たちだけで「銃」の製造も行っており、「僧兵」というのはかなり手ごわい相手でした。

その僧兵というのも、頭を丸めて、朝はほうきで掃除をする・・・というようないまのお寺のイメージではまったくなく、衣装や武器には「金」をあつらえ、髪は伸ばし放題、飽食で女との淫乱事にふけるといった、いまでいう成金野郎みたいなものだったのです。

けれど、財力(=権力)は寺社は圧倒的です。
戦国に生きた大名は、だれしもが寺社のことを「目の上のたんこぶ」的に邪魔に思っていました。

とは言っても、圧倒的な経済力・軍事力を有する寺社に対して、牽制をするような大名はなかなかいませんでした。

お金を持っている権力者からたっぷりの税を徴収するよりも、貧しい人々からの税に走ってしまうのはいまも昔も同じです。

大きな勢力は、必ず抵抗してくるので手に負えなかったのです。
けれどそんな常識を無視して、果敢に税を求めたのが信長でした。

信長は強力な寺社に対して、複数回にわたって莫大な金額の徴収を行ったので、寺社との間でいざこざが起こってきます。
それが、延暦寺や本願寺の焼き討ちにつながったのです。

これは、お寺をひとつだけ焼失させたというのではありません。
当時、最大級だった全国クラスの「大財閥」を解体させたということなのです。
(寺社の話が少し長くなりました。ごめんなさい。)

ほかにも、信長は前例のないことにたくさんチャレンジしています。
信長は当時では最新にして最強の武器だった「鉄砲」をたくさん所持していました。

鉄砲はもちろん高価でしたが、数も稀少なのでただお金を持っていたら買えるというものではなかったのです。
なのに、なぜ信長は大量の鉄砲を戦場で使用できたのか?

それはひとつには信長は「港」を押さえていたことが理由のひとつです。
信長は将軍を擁して上洛したとき、足利将軍の畿内5カ国の官僚へ推挙されますが、それを断り代わりに「堺」、「大津」、「草津」をほしいと願い出ました。

これらはいずれも当時の主要な港です。
港は当時では物流の中心地で、最大の商業地域だったのです。(しかも大阪の堺は国際港としても栄えていました。)

これも書き出すとまた長くなりますので詳細は省きますが、当時の戦国大名はみんな「港」を統治下にほしいと思っていました。
けれどいろいろな弊害があって、だれもそれを実行できなかったのです。

そんな中、またもや前例を無視して勇猛果敢に挑んでいったのが信長だったのです。
さらに、信長の行った金融策としては、貨幣の統一(金銀本位制をつくった)があります。

当時は中国から入ってきた銅銭だけがメインの通貨でしたので、大量の取引をするときには、銅銭も大量に準備しなければならず、物流が制限されていたのです。

信長が銅よりもさらに上位の金・銀を通貨として認めることを発表し、生産を開始したことから全国の物流は一気に促進されました。

とにかく信長は庶民に対してもとても優しく思いやりを持って接していました。
信長は、盆踊りなど庶民も参加して楽しめるお祭りをたくさん催しています。

また、「寺社」や「座」など大きな権力をつぶして、中間搾取をなくしたかわりに、農民の税負担もかなり下げていました。つまりメリットをきちんと世の中に還元していたのです。 

なので、いま私たちが思い浮かべるような天才だけど残虐非道な人間では決してなかったといえるのです。

さて、ここまで、たくさんの例をご紹介してきましたが、その所業をひとつひとつ洗い出してみると、決して突飛な思いつきを実行したわけではないことがわかります。

” 信長の数々の大事業のほとんどは、実は、「だれもがやろうとしていたこと、やりたいと思っていたことを、きっちりやり遂げたもの」だと言えます。 ”

鉄砲を大量に導入することも、社会に悪影響を与えている寺社(大財閥)を解体することも、「港」をおさえることも、貨幣を統一することも、みんなが「やりたい」と思っていたことです。

けれど、できないのにはそれなりの理由(強大な権力の抵抗など)があったのです。
みんなが二の足を踏んで一歩を踏み出せないそんな中、果敢にチャレンジしていったのが信長だと言えます。

” 現状の問題を直視し、前例にこだわらずに解決策を探り出し、粘り強く実行する。 ”
それが信長のやり方だったのです。
信長の歩んだ道は、いままでだれも歩いたことのない(=前例のない)道でした。
出典
織田信長に学ぶ『人の行く裏に道あり花の山』の生き方
http://blog.livedoor.jp/resumo/archives/18603983.html

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